看護とカトリック
カトリックの信仰に支えられたナースをご紹介します。初代会長 井深八重 1897-1989
井深さんを偲び、語ることばとしてふさわしいのは墓碑に刻まれた自筆の愛用の聖句「一粒の麦」(ヨハネ12:24)と次の短歌です。
み摂理のままにと思いしのび来ぬ なべては胸に深くつつみて
1897年(明治30年)台北で誕生。
1910年(明治43年)同志社女学校に入学。
1918年(大正7年)同校専門学部英文科卒業後、県立長崎高等女学校の英語教師。
1919年(大正8年)にハンセン病と診断され、静岡県御殿場にあるカトリックのハンセン病療養所神山復生病院に入院しました。当時の病院長はパリ外国宣教会の宣教師ドルワルド・レゼー神父でした。入院3年後の1922年(大正11年)に精密検査の結果、誤診と判定されました。レゼー神父は彼女に社会に戻るように勧めましたが、専属の医師も看護師もいない当時のハンセン病院の悲惨さと、その中で親身に病者たちに献身する高齢の外国人宣教師に心を動かされ、病院に留まることを決心しました。
1923年(大正12年)東京の日本看護婦学校速成科に入学して看護師の資格を取得し、協力者が現れるまで病院ただ一人の看護師として日夜心をこめて働きました。入院当時は「一生涯に流されるだけ流した涙(ご本人の言葉)」も、無償で働く協力者が現れ、患者たちからも慕われて徐々に重要な存在となり笑顔に変わっていきました。
6代目の院長岩下壮一師(1930年〜1940年)との出会いについては双方寡黙ながらも、よい人格的な影響を与え合ったのではないかと思われます。
ハンセン病院では仮名を使うのが習慣なので、井深さんは院内では堀清子という名で呼ばれていました。ご自分のことはめったに語られず、それでも「自分は会津の武士の子」という自覚をはっきりと持っており、共に働く看護師たちには、病者にはやさしく、自己には厳しく規律を守り、上長の命には従うことを教えられました。1957年(昭和32年)5月、「日本カトリック看護協会」(JCNA)が発足し、初代会長に就任。会歌を作詞しました。
1959年(昭和34年)2月 バチカンにおいてヨハネ23世教皇より、聖十字架勲章「プロ・エクレジア・エト・ポンテイフィチエ」を受章。
1961年(昭和36年)9月、第18回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。
1966年(昭和41年)以降2回の受勲。
1974年(昭和49年)5月、ローマで行われたカトリック看護婦世界大会へ出席。
1975年(昭和50年)5月、同志社大学より「名誉文化博士」の称号を授与。
次第にその存在が社会的にも大きく認められ、ラジオ・ドラマや小説のモデルに使われたりするようになりましたが、ご本人はそういうことには無関心でした。80歳を超えた1978年(昭和53年)より現役を退き、名誉婦長となり体調を崩すこともありましたが、早朝のミサには必ず出席しオルガンを弾いて下さっていました。1989年(平成元年)5月16日は神山復生病院の創立100周年をむかえるため、出席を楽しみにされていましたが、残念ながらその前日の15日に入院先の病院で心筋梗塞のため帰天されました。式典に出席された高松宮妃殿下始め、大勢の方が井深八重さんの死を惜しみ、お祈りしてくださいました。その92才の生涯は多くの人々に感銘を与えました。
シスター寺本松野 1916−2002
著書「患者さんの遺した言葉」2001
『看護の中の死<新装版>』2001
『<新装版>きょう一日を』2001
『看護は祈り』2001
(日本看護協会出版会)
天使病院(札幌)、聖母病院(東京)における看護実践、聖母女子短期大学における看護教育を通して、特に、わが国のターミナルケアの発展と深化に貢献されました。
2001年にフローレンス・ナイチンゲール記章を受章。翌年2002年、聖母病院にて帰天されました。
シスター寺本が、1998年の講演「看護の心―新人に贈るメッセージ―」の中で、新人看護師に向けて話された内容をご紹介します。
50才のとき、ある看護学校の学生から質問を受けました。「あなたにとって看護とは何ですか」と。即答はできませんでした。暫く考えてから「私にとって看護とは、私の人生であり、私の生きる姿です」と答えました。その日から30年過ぎましたがこの言葉は、常に私の中に生きていて、日々私を励ましております。
看護は出会いである。
私はそう思っております。他者に向かって心を開き、相手の心を受け留めて、信頼関係が出来上がるそのプロセスで、私たちはお互いに学び合い、成長できるのではないでしょうか。(聖母女子短期大学紀要,1999)